ことば百科

ことば遊びあれこれ

2, 日本におけることば遊びの歴史と伝統

 今日伝わることば遊びにはさまざまな種類があるが、使用される言語によって各国各様に発達してきた。また、同じ国の中でも地方や民族に特有のことば遊びが残っていることも珍しくない。日本でも古くからことば遊びは盛んだったが、その形態は日本語の特徴(日本語は音節構造が単純で、同音異義語が多い、漢字とかなを使って表記する)を巧みに利用している。

 ことば遊びは文芸作品でも重要な要素となっている場合が少なくない。まだかなのなかった時代の『万葉集』(8世紀)には〈戯書〉と呼ばれる漢字表記がある。たとえば、「山上復有山」は「山」という字の上にもう一つ「山」を重ねることで「出」の漢字ができるため、「いで」と読む。これは一種の漢字パズルであるが、こうした漢字の分解・組み合わせによる文字遊戯は中国から漢字の輸入に伴って伝わった〈字謎(なぞ)〉〈拆字(たく‐じ)〉の影響と考えられる。

 『万葉集』にはこのほかにも「十六自物(し‐し‐じ‐もの)(4×4=16であるから)」の様な判じ物的な例もみられ、漢字本来の意味を離れた遊びの意識が感じられる。同時に、それは固有の文字を持たなかった当時の日本人が表記上の工夫を行ったとも考えられ、その意識は〈当て字〉の場合と似ていると言えるだろう。

 かなが使われるようになった平安時代では和歌のレトリックが発達し、そこにことば遊びと共通の要素が見られる。代表的なものでは同音の単語に二つの意味を担わせる〈懸詞(かけ‐ことば)〉、ことばの連想を重視する〈枕詞(まくら‐ことば)〉や〈縁語〉、また、和歌の中にある単語を隠す〈折句〉といった修辞法が発達した。これらは単なることば遊びと言うよりことばの知的操作として芸術性の高い技法である(「日本の修辞法―レトリック」参照)

 かなを使用するようになってから、すべてのかなを一度ずつ使って意味のあることばを作り出すこと〈無同字歌〉も行われた。その中でも〈いろは歌〉(10世紀?)は最も完成度が高く、今日まで伝えられている。いろは歌を漢字かな交じりで示すと、「色(いろ)はにほへど散(ち)りぬるを 我(わ)が世(よ)たれぞ常(つね)ならむ 有為(う‐ゐ)の奥山(おく‐やま)今日(け‐ふ)(こ)えて 浅(あさ)き夢見(ゆめ‐み)じ 酔(ゑ)ひもせず」のようになり、仏教的な無常感を表現していると解釈する説もある。〈いろは歌〉本来の作成目的は不明確で、学説もいくつか並存するが、日常では長く書道の手本や辞書の配列などに利用された。

 さらに、〈いろはがるた〉でもよく知られている。知識人のみならず、一般人にも根付き、口ずさみとして、いろは四十七字を逆から読んで暗唱することもあったという。〈いろは歌〉を7字ずつ並べ、各行の最後のかなに注目すると、「いろはにほへと

 ちりぬるをわか

 よたれそつねな

 らむうゐのおく

 やまけふこえて

 あさきゆめみし

 えひもせす」のように「科(とが)なくて死す」というメッセージがあるという説も一時飛び出したことがあるが、にわかには信じ難い。

 鎌倉時代に入っても、和歌に関係することば遊びは盛んで、形態としては平安時代の伝統を受け継ぐものと考えられる。しかし、作家織田正吉が発表した「百人一首」暗号説はとくに注目を集めている。織田は「百人一首」の各歌にある同じ単語・表現に注目し、それらをキーワードとして一定の枠の中で網の目のように連鎖することば遊びではなかったかと推測しており、実証的な研究を進めている。このことに確証が得られれば、「百人一首」の撰者藤原定家は歌人や学者としてばかりでなく、ことば遊びに高度な知識を駆使した日本有数の人物と言えるだろう。もちろん、「百人一首」はかるた遊びとしても名高いことは言うまでもない。

 さらに、室町時代末から江戸時代にかけては、連歌・俳諧(はい‐かい)などの文芸にことば遊びの精神が継承され、大きく花開くことになった。和歌の場合は知識階級の手になるものが多かったのに対し、江戸時代に入ると俳諧は庶民層まで広がりを見せ、それに伴ってことば遊びは一気に庶民のものとなった。今日のことば遊びは江戸時代にほぼその形態が整ったと見られる。

 こうしたことば遊びの精神は「親の意見と冷酒はあとできく」のような〈ことわざ・成句〉として伝承された例も多い。あるいは落語をはじめとする芸能にもことば遊びの精神は醸成され、庶民の娯楽に浸透している。現代のテレビ・ラジオにおいてもクイズ番組やお笑い番組が根強い人気を保っており、その良質な部分は我々の言語生活に潤いを与えるために大いに貢献をしているのである。

(『ことばの知識百科』三省堂刊より)
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