ことばパティオ

第10回 辞書2.0の世界

増井 俊之(ますい としゆき)

コンピュータメーカー技術者・計算機科学者

2008年5月16日

 Web2.0という言葉が流行しています。具体的な定義は存在しませんが、従来のような静的なWeb環境ではなく、沢山の利用者が動的に能動的に内容を編集したり共有したりできるような Web環境が今後重要になるだろうという点では大体意見が一致しているようです。 ユーザが編集する百科事典WikipediaはWeb2.0的なサービスとして最も成功しているもののひとつですが、情報をみんなで作成したり共有したりするという方向性の正しさを証明しているといえるでしょう。

辞書の共有

 みんなで百科事典を作って利用できるのならば、辞書でも同じことが可能でしょう。世の中の様々な事物について詳しく説明したもののことを「事典」と呼びますが、「辞書」にはもう少し広い意味があります。たとえばパソコンで利用される仮名漢字変換「辞書」は漢字の読みと表記の対応の集合であり、個々の単語の意味はあまり考慮しないのが普通です。もっと単純なキーワードの集合を「辞書」と呼ぶこともありますし、規模の大小もあまり関係ありませんから、「事典」よりも単純/柔軟/動的なものが「辞書」と呼ばれることが多いようです。ネットワーク上でみんなで共有して様々な用途に利用できる辞書2.0のようなものが将来流行してくると思われます。

 辞書がWeb2.0化するといろいろ便利なことがあります。普通の仮名漢字変換辞書では、最近流行した単語を変換できずに困ることがありますが、共有辞書の場合は誰かが新語を登録してくれている可能性が高いでしょう。検索キーワードを変換辞書として使えるようになればさらに便利でしょう。 また、辞書をグループで共有することができれば、特殊な部署名を社内で共有したり、教師や生徒の名前を学校内で共有したりできるでしょうし、映画好きコミュニティで監督や俳優の名前を共有することもできるでしょう。こういう特殊な辞書を自由に共有し、それに加えて自分だけの辞書を利用することができれば、テキスト入力の問題がかなり改善されるはずです。

検索と辞書

 共有辞書は入力作業に便利なだけでなく、情報検索にも活用することができます。携帯電話の予測入力システムは、辞書から単語を検索して貼り付けていくという原理でできていることを考えても、検索と入力は非常に近い関係にあるということができます。検索エンジンを使うとキーワードから文書を検索することができますが、キーワードを並べたものが文書であると考えると、文書自体がひとつの辞書のようなものだと考えることもできます。検索操作と入力操作は同じようなものであり、辞書と文書も同じようなものだということを利用すれば、辞書の活用法が大きく広がる可能性があります。

 東京都の図書館リストを検索したいとき、「東京都」「図書館」「リスト」というキーワードで検索しても図書館リストのページはみつかりませんが、「代々木図書館」「赤塚図書館」で検索すると適切なページがすぐみつかります。図書館のリストのページは図書館情報をエントリとする辞書のようなものであり、エントリをキーワードとして検索すると辞書がみつかることになりますし、その情報を利用するとシソーラスのような使い方もできるはずです。 現存するWebページなどを辞書やシソーラスとして活用できれば情報検索の方法は広がります。

実世界化辞書

 現在の計算機が扱える情報は計算機の中でほとんど閉じており、外界の情報を扱うことは簡単ではありません。検索エンジンで世界中の情報を検索できる現在でも、自分の家が無事かどうか調べることすらできません。センサが普及してネットワークに接続されていくことによってこのような状況が変わり、計算機ネットワークは実世界化していくと考えられますが、このとき同時に辞書も実世界化していくと思われます。前述の変換辞書の場合、自分の位置や現在時刻に応じた辞書が利用されるようになるでしょう。神戸にいるとき「さ」と入力すると「三宮」と変換され、横浜にいるときは「桜木町」と変換されると便利です。 現在の辞書エントリはテキストになっていることがほとんどですが、位置情報、色情報、温度、時間のような実世界情報も辞書エントリとして使えるようになるかもしれません。

辞書の将来

 情報共有が望ましい場合と正確な情報が必要な場合が完全に一致することはありませんから、 Wikipediaが流行っても百科事典が消えることはありませんし、辞書2.0が普及しても現在のような辞書が減ることはないでしょう。現在は三省堂Web Dictionaryのようなオンライン辞書をブラウザから便利に利用することができますが、将来はさらに広い環境においてさまざまな種類の辞書を統合的に利用することにより、より効率的な情報検索や情報発信ができるようになることを期待したいと思います。

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