ことばパティオ

第4回 辞書ぎらいが辞書ずきになるとき

津野海太郎(つの・かいたろう)

大学教員・『本とコンピュータ』編集長

2002年7月23日

 人間を辞書ずきと辞書ぎらいとに分ける。すでに「ことばパティオ」欄にお書きになっている紀田順一郎、野崎昭弘、柳瀬尚紀といった方々は、もちろん前者である。それも「超」の字つきの辞書ずきであることは、だれもが知っている。

 他方、私についていうと、こちらはどなたもご存知ないとおもうが、よくもこれで一人前の編集者面してこれたな、と自分でも呆れるほどの辞書ぎらいなのだ。大辞林や新明解国語辞典? ざんねんながら所持していません。広辞苑? あるわけないじゃないですか。「それで困りませんか?」と聞かれたら、「困ります」と答えるしかない。編集者としても、ものを書く人間としても、そのために、ばかな失敗をなんどもかさねてきた。

 それなのに、なぜ私は辞書や事典をかくも毛ぎらいするのだろうか。紀田さん、野崎さん、柳瀬さんとちがって、私がせっかちで根気がない人間だからなのか。それもある。否定する理由はどこにもない。だが、コンピュータやインターネットとつきあいはじめて、もうひとつ、もしかしたら辞書や事典は伝統的な本の形態にかならずしもふさわしくないのではないか、という新しい(自分勝手な)辞書ぎらいの理由を思いついた。

 ヨーロッパでいえば15世紀ということになるが、印刷した複数の紙を綴じた本というかたちがはじめて出現した時代に、もしなんらかのコンピュータが存在していたら、と仮定してみよう。辞書や事典が現在のような本のかたちをとることは決してなかったにちがいない。まわりに本しかなかったので、やむなく現在のようなかたちになったというだけの話で、本そのものは、やはりページを頭から順々に読みすすむのにもっとも適したメディアなのだ。アルファベットやアイウエオをたよりに、必要な情報をもとめて厚い本のなかを行ったり来りする作業には、どこかむりがあるという気がしてならない。

 コンピュータは、ひとつの完結した作品を最初から順々に読みすすむという利用法には向かない。それはあくまでも紙の本の役目である。そうではなく、コンピュータは膨大なデータのうちから必要な情報を即座にさがしあてる作業に向けて最適化された道具なのだ。小説や歴史や哲学書などの電子本化が一向にすすまないのとは対照的に、辞書や事典のほうはかなりの確信をもって電子化の道をたどりつつあるように見える。そのことには理由があるのだといわざるをえない。

 じっさい、紙の辞書をあれほど苦手としてきた私も、CDーROM化された辞書事典やインターネット上の辞書事典とは、けっこうまめにつきあっている。つかっていて、いかにも自然な気がする。どちらかといえば私が実用本位の人間で、ほかの本ずき諸氏にくらると、紙の本にたいする物神崇拝的な気分があまりないせいかもしれない。

 三省堂の「e辞林」についていえば、先日、たまたま jazz の語を動詞としてつかったばあいの意味を確認する必要があって、「グランドコンサイス英和辞典」を引いたら、and all that jazz というフレーズが目にとびこんできた。「などなど」という意味の俗語的いいまわしらしい。同時にひらいていた「新グローバル英和辞典」のほうを見ると、「その他なんだかんだ(下らない物[事])」と、さらにくわしい語義がしるされている。なるほど、あのボブ・フォシーが監督した自伝的映画『オール・ザット・ジャズ』の題名はそういう意味だったのか。私も六十歳をこえた。「e辞林」は表示文字が大きいのでたすかる。もしこれが紙の英和辞典だったら、ぜったいにこんなにこまごました記述は目にはいらなかったろう。

 せっかく三つの辞書がひらけるのだから、一つの辞書で「見出し語検索」をするよりも、複数の辞書事典をつかって「全文検索」をするほうがおもしろい。どうしても必要な辞書を二つ、あまり関係のなさそうな辞書を一つ。たとえば「ことわざ慣用句辞典」や「地名辞典」など。電子辞書は横道にそれることがないのでつまらない、という人がおおいが、電子辞書には電子辞書なりの小径や路地や横丁のたのしみがあるのだということがわかるだろう。三つなどとケチなことをいわず、五つでも七つでもひらけるようにしてほしい。